昨日は、沖縄が日本に返還された記念の日で、本土復帰40年でもありました。式典も行われていましたが、私たちと同世代の方はどれだけ、そのことを感じたのでしょうか?
私は現在、40歳。40年前の5月15日は、生まれて5か月目でした。当然、この時の記憶もありません。しかし、その時の日本人の思いはどうだったのでしょう?そして、沖縄の方の思いはどうだったのでしょう?
実は、私のブログを見ていただいている方から、メールが届きました。以前にも一度紹介したことがあるのですが、その方は、石垣島の方です。40年前を思って書いた文章をメールで送っていただきました。
その一部を紹介しようと思ったのですが、どの部分を紹介しようか迷ってしまいました。ご本にはその文章を掲載することはまだ、伝えていないのですが、どうしてもその思いを私一人でとどめて置けないと思い、全文のせたいと思いました。
紹介させていただきます。
「天も泣いたその日の沖縄、そして八重山」 ―本土復帰40年の軌跡―
今から四十年前の一九七二年五月十五日午前零時を期して、沖縄の復帰を告げるサイレンと汽笛がいっせいに鳴り響いた。四十七番目の「新生沖縄県」の誕生の一瞬である。同時に八重山三市町も復帰の夜明けを迎えた。復帰した時の胸の高鳴りは今でも忘れられない。
その日、五月十五日―沖縄はしのつくような大雨。あたかも、戦後二十七年余にわたるアメリカ統治の“足跡”をあとかたもなく洗い流すかのように、また、疑問の多い“返還の実態”に多くの沖縄県民が怒りと、悔しさを流す涙であるかのように降り注いだ。四○年前のこの日、県民は激しい雨をついて、午後から那覇の与儀公園で大雨の中、復帰の内実を糾弾し、「核抜き本土並み返還」「基地なき平和な沖縄」を叫んだ。
沖縄の本土復帰を高らかに宣言する屋良朝笛知事の映像をテレビで見て感激したことを思い出す。知事の復帰宣言は「言い知れぬ感激とひとしおの感概」を表明しつつも「沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとは言えないことも事実であります。そこには米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵する色々な問題があり、これらを持ちこんで復帰したわけであります」と言うものであった。
多くの難問を丸抱えにしたままの復帰は沖縄県民にとって必ずしも歓迎されるものではなかった、ということが知事メッセージからも伺い知ることができる。
私は、毎年めぐり来る復帰記念日を前に、喜びと悲しみが交錯した復帰前後の幾つかの場面を思い出さずにはおれない。そのなかでも、復帰の日の五月十五日のことである。
実は、復帰の日を何時にするかで、日米でもめたことがあった。日米がともに年度が変わる日を主張した。じゃあ、もめないじゃないないか!と、思うのだが、実は年度の変わり目は日米で違う。日本は、四月一日。ところが、アメリカは七月一日。で、最終的には、四月と七月の間をとって五月十五日になったのであった。復帰の日は、日米折衷案だったというわけだ。なぜ、五月十五日なのかがこれで解決?できるのではとしたことだ。しかし、二十七年間もの異民族統治下にあった沖縄県民の苦悩を頭越しに決められた「妥協の産物」には、今なお納得がいかない。
私も高校を卒業して本土の大学に進学するまでの十数年を「復帰運動」の渦中で育った。私たちの高校・大学の青春時代は歴史用語でいういわゆる「異民族支配」の真っ只中にあった。今思うと語り尽くせないほどの多くの思い出が浮かんでくる。
「日本渡航証明書」をもって私(たち)が「日本留学」した時代は、また沖縄では「祖国復帰運動」がもっとも高揚していった時期でもあった。沖縄をアメリカの施政権下に置くことの法制度的根拠となったサンフランシスコ講和条約が発効されたのが一九五二年四月二八日だったことから、その日を「屈辱の日」とみなし、ヨン・ニー・パーなどとも呼ばれた。
祖国復帰記念日を前に私は、今なお、しっかりと大切に保管している身分証明書を取りだす。と、「本証明書添付の写真及び説明事項に該当する日本人・〈氏名〉は進学の目的で本邦へ渡航するものであることを証明する。」の文字が印されている。本土に行く時は「入国を許可」沖縄へ戻る時は、鹿児島港の税関によって「出国を許可」なのである。「沖縄県民は日本人じゃないのか」・・。怒りと違和感に満ち今なお、脳裏にしっかりとやきついた光景。パスポートを前に、当時の自分を思う。
さらに、郷土八重山への愛着と差別への怒りを覚えた私、矢も盾もたまらず、当時(大学在学十九歳)本紙あて投稿、そのタイトルは「起て、八重山の学生諸君」。やるせない思いとして、「祖国の中の異邦人、その人間は、真の異邦人よりさらに辛く、情けなく悲しい運命だといえないだろうか」「琉球の若者は、島津の圧政下で完全に抵抗の具を取り上げられながらも、圧縮された若いエネルギーを空手を編み出し戦った歴史がある」「素朴の民族感情の沖縄解放を強く叫ぼうではないか」「共に起ちあがろう。忘れられた島に陽のあたるまで」。と、郷里の後輩達への熱烈な呼びかけをしている。今、読み返してみると、本土にありての率直なストレートな感情であったことを思う。
戦後六七年、沖縄が本土へ復帰して四○年、改めて偲ばれる。
沖縄県民が要望し続けてきた復帰が達成された七十二年、戦争で失った国土を、平和裏に、外交交渉で取り戻すことに成功したのは、政府の努力と国民の協力に負うものであった。しかし、その推進力となったのは、沖縄県民であったと自負してよいのではないだろうか。米国の統治下における矛盾、不合理の根本的解決は復帰以外にはないとの認識に立って、復帰という悲願を成し遂げた県民の英知とエネルギーは高く評価されたことはいうまでもない。
もろもろの現実を背景に復帰して四○年、復帰に託した願いはことごとく裏切られたと言っていい。さらに、国益と国策の名のもとに、沖縄差別は今なお続いている。手さぐりで体得した平和・自治・福祉の尊さを、再び沖縄県民はもちろん全国民に同じ屈辱と苦しみを味わわせないために国民世論および国の政治に反映させるのが沖縄県民の責務だと思う。
四○年前の五月十五日の大雨は、まさに沖縄県民の「怒り」「悔しさ」を天もはっきりと結果を示した。私は、その日を「天も泣いたその日の沖縄」として深く胸に刻み、語り継いでいくこだわりを持ちたい」と決意を新たにしたい。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる。」の教えが導く。折しも復帰四○年の平和行進が初の与那国島を皮切りに沖縄県内全島へバトンタッチされる。それら、すべての一つひとつが「記録なくして記憶のリレーはない」との思いをいつまでも持ち続けていきたい。
という内容です。
私が生まれて5か月の時、同じ時間、石垣島でこのように感じていた方が、今私とこのブログで結ばれている。
私は、どうしてもこの文章を切り取ることができませんでした。この方の思いが詰まっているから。
いろいろな方の思いの上に現在が成り立っている。
そのことを私たちは、しっかり受け継がなければいけない。そんな気持ちを強くしました。
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